自分の声を歌い合うために / Writing without Teachers 

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there is a light that never goes out

「自分の意見」=絶滅危惧種。

公教育の始まりとともに本格化して以降、公私にわたって継続開催されるこの/その社会の各種儀礼において、最も不要とされ続けてきたものが個の意見ではないか。

たとえば最新の民主主義教育とその大地となる社会の金属疲労を考慮したとして、依然として残る最大の盲点/問題はつまり、「自分で 自分の考えていることが わからない」ということ。

本来、言語の大きな機能は、この私に訪れてきて、また再帰的に私を構成する要素としての出来事・感情とそれらの存在自体を私に知らしめることであった。

ところで現代の言語の使用は、外堀を何重にも編まれた文脈と使用条件に先回りされ、極めて自然な諸監視を前提とするうち、気づけば自己検閲の手続きが完了しているのであった。

のであったとしても。

では、それ以外の言葉との付き合い方、は存在しないのだろうか?

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Writing without Teachers」の著者 Peter Elbowは、挫折を繰り返していた。長い間、論文を書きあげることができなかった。そして書けないまま、書くことを教える立場=教師となった。以降のスラム街での活動やノーベル賞受賞者の輩出といった成功譚の詳細は本文に譲るとして、数々の失敗のプロセスの先に、何かを書くという行為の完遂のために会得した要点が以下の2つだった。

A,自己検閲を外し(「Free writing」)、聞き書きのように書き留めた自分の言葉を編集するメソッドの発見。

B,トップダウンでの指導ではなく、水平的な他者とのフィードバックのなかで言葉が響き合う場作り(「Teacherless class」)

Aの本質は、失敗は存在せず、従って規制も存在しないということ。

Bの本質は、そうして出てきた言葉を、権力構造のバイアスがかかった批評に晒すのではなく、「その言葉は他者へどのように受け止められたのか」という感想を言葉によってフィードバックし合うこと。

くれぐれも、Aだけで完結できない構造に注意されたい。

自分の声は、自分の内側で響いている間は自分の声ではなく未だ妄言である-「山月記」の虎の咆哮が近くに木霊する-届かない声は時と場所に依らず、他者に届かない。時と場所を隔てても届くということが言葉の機能の核である。であるのなら、響く言葉は、それ自体が出来事となり言霊となる。振り返ってみて、響いた言葉はどこから差し向けられたものだったか。

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Teacherless classに息苦しさはない。他者の意見は自分と同じ重さなのだから、その言葉は受け入れても受け入れなくともどちらもよいのだ。判断の余地に風が吹き、風の通る空間に発生した熱はその場固有の呼吸を生む。さしずめ、その場の呼吸を「自分」と呼んでみてもいいのだろう。

汎用性の高いこのメソッドの全体は、文章を書き連ねることに限定されずに、多分野-教育や芸術、そして関係性を構築することで可視化される営み全体-へと広がっていくことを望むものだ。

(実際に我々vs?collectiveがギャラリーで催したWSの記録はこちら

こうした理念や場に興味のある方は、本書のページを捲るだけでなく、ぜひその先の景色を目にして頂きたい。

本書はこのようにしてはじまる。

「This book is dedicated to those people who actually use it – not just read it.

/ただ読むのではない、実践するあなたに捧ぐ 」

引用元:Writing without Teachers-Twenty fifth Anniversary (second & new) edition 」by Peter Elbow /Oxford University Press, U.S.A.; 2 Sub 版 preface /1998

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※本書には日本語版が存在しないため、筆者が鋭意和訳中。

なお、続編にあたる「Writing with Power – Techniques for mastering writing process 」では、書くことに対してより積極的な姿勢を持つ人に向けて、プロセスに沿って起こりうる失敗を実況するような内容ともなっている。

Source: ハフィントンポスト
自分の声を歌い合うために / Writing without Teachers